[日本]拉致監禁、元信者Cについて

この手記は、12年前にCが韓国で起こした損害賠償請求訴訟に対して、その虚偽を指摘する目的で裁判所に提出した証言文を基に「 メンバーSの手記」として再構成したものです。

C:元信者
S:早稲田大学法学部卒業 Cの親しかった友人

目次

Cとの出会い

私がキリスト教福音宣教会(摂理)に初めて出会ったのは、1995年2月、早稲田大学2年生の時でした。友人の紹介で高田馬場駅近くの早稲田教会に通い、聖書を勉強するようになりました。

Cに出会ったのもその頃で、当時Cも私と同じように、聖書を勉強しに来ており、同じ大学の3年に在学中でした。その後も聖書勉強会に通う中で、頻繁に顔を合わせるようになり、一緒に食事をしたりするうちに親しくなりました。

Cと私は早稲田大学の同期メンバーでほぼ毎日顔を合わせ、スポーツ、芸術活動などで日々時間を共にしていました。Cは私のことを黙示録の聖句になぞらえて『私たちは二本のオリブの木だ』と言い、早稲田教会の中で最も親交の深かった人で、日々対話していました。

鄭牧師への面会時の事実関係

1995年7月、私とCは早稲田教会、筑波教会、自由が丘教会など男女合わせて100名程と共に、初めて韓国を訪れました。ソウルで開催されるスポーツ大会や、プサンで開かれる芸術祭などの行事に参加し、また、チョン・ミョンソク牧師の説教を聴くことが目的でした。

ソウルのスポーツ大会の後には、チョン・ミョンソク牧師が、一人ひとりに果物などを手渡してくれて、私とCが初めて鄭牧師に会ったのはこの時でした。翌日はソウル市内を観光し、景福宮や南大門市場などを訪れ、買い物や食事などをして過ごしました。

続いてプサンで芸術祭があり、演劇や歌などを鑑賞して、プサン市内のホテルに向かいました。ホテルに着くと、次の日のスケジュールを確認したりする簡単なミーティングの後、私はCと他の2人と共に4人部屋に宿泊しました。

その夜に、早稲田教会の牧師が私たちの部屋に来て、「S,チョン・ミョンソク牧師にお会いできそうだから行ってみない?」と声をかけたので、「行ってみたいです。」と答えて私は外出の支度を始めました。

すると横にいたCが、「私もチョン・ミョンソク牧師に会ったほうがいい気がする」とつぶやいて、その早稲田教会の牧師に「私もチョン・ミョンソク牧師に会いたいので、連れて行ってください」と自ら申し出ました。当時、チョン・ミョンソク牧師とは本人が会うことを望めば誰でも会ってもらうことができました。私たちは出かける支度をしましたが、夜も遅くなったので、その日は結局取りやめになりました。

翌日は、午前の飛行機で日本に帰る予定でしたが、「あまり時間はないけれど、牧師に会いに行こう」という雰囲気になり、5名ほどが牧師の宿泊していたホテルを訪れました。「出発までほとんど時間がないから、話したいことはなるべく簡潔にまとめて」と言われたので、車の中でそれぞれ考えを整理しながらホテルに向かいました。

ホテルに着き、少し待ってから、私がチョン・ミョンソク牧師の部屋に入ると、牧師はソファに座っていて、笑顔で迎えてくれました。テレビのニュースを見ながら、韓国の社会情勢を説明してくれ、日本の指導者が私の隣りで通訳してくれました。

私は「もっと聖書の御言葉を実践して人格的に成長したいけれど、なかなか難しい」とチョン・ミョンソク牧師に相談したら、「じゃあ、お祈りしなくちゃ。」と言って私の頭に手を置いて祈ってくれました。5分間くらいの対面でした。

次にCが面会をしました。私はCと一緒に空港へ向かうため、部屋の外で彼女を待っていました。5分くらいするとCがとても晴れやかな表情で部屋から出てきました。私に左手の手のひらを見せ、チョン・ミョンソク牧師がペンでサインを書いてくれたと、嬉しそうにおしえてくれました。Cは、「私は考え事をする時や気をしずめる時には、左手を胸に当てるくせがあるから、左手にサインをしてくれたのも意味があると思う。」と言っていました。

また「チョン・ミョンソク牧師がイエス様の話をして下さって、全部Jさんが通訳してくれた」と言っていました。そして、2人で走って車に乗り込んで空港に急ぎました。 この年の秋と翌年の春に、チョン・ミョンソク牧師が日本を訪れ、私とCは二度目も三度目も同じ機会に牧師に会うことになりました。いつも2人一緒の部屋に宿泊して過ごしましたが、Cがチョン・ミョンソク牧師と一対一で一瞬でも会ったことは、この後一回たりともなかったことを私は確かに記憶しています。

Cはこの初回の対面が、ある韓国人牧師から「あなたはチョン・ミョンソク牧師に面会すべきだ」と言われたためであったと、裁判で主張したようですが、上記のように、私はこの時Cの真横にいて、Cが自ら牧師との対面を希望して申し出たのを直接見聞きしていました。そのため、そのような主張は全く事実に反するものです。

さらに、初回の対面の際、通訳のJさんが、チョン・ミョンソク牧師がわいせつ行為に及べるようCの肩を強く押さえつけていたため、逃れることができなかったとも主張したようですが、Cと私はそれまで何度もJさんと会ったことがあり、その人格的で敬虔な信仰を信頼していた人でした。もしもCの主張したような強制を受けていたなら、その後Jさんに対して何らかの不信感やわだかまりが残ったはずですが、その後もCのJさんに対する信頼が変わることはなく、会える時にはいつも嬉しそうに会話していました。

この5分ほどの面会の時間は、わざわざ日本から訪れた新しいメンバーを、チョン・ミョンソク牧師が温かく迎えてくれ、緊張気味の私たちを気遣い、テレビの話やサインを書いて和ませてくれ、柔和な姿勢でイエス様について語り、祈ってくれた、思い出深い時間でした。Cが訴えたような、牧師の権威を濫用して初対面の信徒を黙らせ、わずかな時間に卑劣なわいせつ行為に及ぶような、おぞましい苦痛の時間では決してなかったことを、私は強く証したいです。

監禁による強制棄教、拉致監禁の実態ー100万の報酬

ここで、後にCも体験した、監禁による脱会工作ついて、私や他のメンバーの実体験に基づいて説明したいと思います。

私は、1998年7月から8月にかけて24日間、立川の短期賃貸マンションの一室で、家族とA牧師から、監禁による脱会説得を強いられました。

その手口として、まずA牧師は、自分が先に脱会させた元信者を使って、他のメンバーの親に電話をさせ、「お宅の子供が危険なカルト宗教に入っている。親の説得には耳を貸さないから、やめさせるためには、摂理に詳しいAという牧師に依頼するしか方法がない」と話をさせます。
そして、その密告に衝撃を受けた親が、藁をもすがる思いでA牧師に連絡をしてくると、約1カ月間短期賃貸マンションの一室を借り、そこに本人と家族全員が集まるようにと、監禁の手はずを整えさせます。

そこで、親に相談され依頼されたという形で、A牧師が登場し、本人と対面します。その後は、家族に監視され、外部との連絡を一切断たれた中で、連日A牧師から摂理に対する悪評を聞かされ、A牧師と家族から脱会を迫られます。

子どもが脱会を口にするまでは決して解放されず、心身ともに疲れ果てた中で本人が信仰を諦めると、A牧師はその名目の謝礼や献金であるとを問わず、成功報酬を受け取ります。このような活動をする牧師らは、一般に『脱会屋』と呼ばれています。

実際、私は、監禁後に父親が「今回のことで160万円かかった」と話しているのを聞きました。1日約1万円の部屋代と光熱費が24日分で約30万円、家族5人分の弁当や外食代と生活雑費が1日1万円とすると、24日で約30万円、残りの100万円がA牧師に渡ったと推測できます。

私の友人メンバーの親御さんは、Cからの密告電話で監禁を勧められ、そのためには相応の費用が必要だと言われ、提示された金額に憤慨し、Cが送りつけた摂理批判の資料を、むしろ教会に提供するようにと子どもに手渡したと、私はそのメンバーから直接聞きました。

私のその高層マンションでの監禁が終わるころ、A牧師は私と家族に、「今ここにあなたのような別の宗教の信者が他に2人入ってますよ、大変でね。」と言っていました。

夏休みや春休みの長期休暇になると、必ず、帰省したきり連絡が取れなくなるメンバーが数人出て、その顛末が分かるのは、メンバーがそのマンションから解放された後でした。A牧師は私に、1980年代からずっとそのような活動をしていると言っていました。

私は最初、親から「家族で買い物に行こう」と誘われて外出したのに、突然狭い部屋に閉じ込められ、ひどくショックを受けました。どんなに拒んでも、ほぼ毎日、A牧師に会わせられ、一方的な鄭牧師批判と私の信仰を否定する話を1日に2~5時間聞かされました。
読まされる資料は、すべて教会を悪評するもので、外出も電話も一切禁じられている中では、その真偽を確かめることは不可能でした。

A牧師の誘導する通りに反応せずその流れに逆らうと、鋭く睨みつけ、苛立った様子になり、攻撃的な口調で責められました。それでも私が粘り強く正当な反論をした時は、A牧師は顔を赤らめて激高し、机を拳でドン!と叩きながら、「あなたと話していると不愉快になる!」と声を荒げました。そのように高圧的なので、非合理だと思っても一方的に話を聞かされるしかなく、納得のいくような対話ができる相手ではありませんでした。

ある時は、A牧師の摂理の教理批判に対して、私が聖書を開いて反論すると、パッと切り上げて帰ってしまい、次に現れた時には、その話には一切触れないまま、全く脈絡のない別の批判資料を持ってきて攻撃を始めました。

またある時は、A牧師が一方的な批判をしたまま、こちらの意見は聞かずに帰って行き、その後同席していた親から私の見解を聞かれたので話すと、どうやらその話が陰でA牧師に伝えられていたようで、次の時、A牧師は来るなり、私のその見解を否定するための資料を提示してきました。

対話とは名ばかりで、あまりに操作的で不誠実なやり方ではないかとしばしば憤りを感じましたが、相手の人格的な弱さを面と向かって指摘することは、いやしくも信仰者である自分には避けたいことで、また手段を問わぬほどに必死な親が気の毒であり、最後までA牧師らのやり方に付き合いました。

A牧師はまた、別の新興宗教の教祖の淫乱な実態を暴露した批判本や、カルトによるマインドコントロールによって信者が正常な判断能力を失っていくことを説いた書籍を、24日間に10冊ほど読ませました。
その内容は恐ろしいもので、それを読んだ両親は日に日に思考がに追い詰められ、視野狭窄に陥っていきました。

監禁マンションに入った当初、A牧師との話し合いを親に断りきれなくなったとき、私は父親に、まず私から摂理の聖書解釈を聞いてみてほしいと言い、5~6時間かけて、一気に概要を話して伝えました。

慎重に聞いていた父は、「特におかしい話だとは思わない」と言い、しばらく目を閉じて考え込んだ後、「もしもお前とあの牧師の話し合いが物別れに終わったら、お父さんはお前の教会でこの聖書の話を全部聞いてみるよ。一回2時間くらいなら聞かせてもらえるだろう?教会はタバコはダメだろうからな。お父さんはタバコを吸わないのは2時間が限界なんだ。」と言いました。
その夜は深夜まで、信仰や家族のことについて過去になかったくらい深く対話し、とても良い時間を過ごせて感謝しました。

しかし、翌日からA牧師による一方的で執拗な攻撃が始まり、数日後には、両親は心理的に追い込まれ、私に何としても摂理をやめさせるという考えしか持てなくなっていました。その状態で監禁を長引かせても家族を苦しめるだけであり、もはや状況を好転させることは不可能だと覚った私には、「教会に通うのをやめます」と偽る以外、監禁状態を終わらせる術がありませんでした。

A牧師は、「ひとりでゆっくり考えるゆとりがないように、なるべく狭い部屋を借りるように」と親に指示していました(後日、父親談)。6畳ほどのワンルームには布団が2組しかなく、一家5人でそこに寝泊りするには、ソファベッドに布団無しで母が、いちばん長身の兄弟が布団の一部を使って玄関すぐの狭い通路に、父ともう一人の兄弟と私が、二組もない布団を繋げて残りのスペースで休むしかありませんでした。

昼間も常に家族の誰かが部屋にいるので、狭いトイレとお風呂以外には、24日間、ひとりになれたことは一秒もありませんでした。
非日常の中で本人を追い詰めなければいけないからということで、食事を作ることは基本的に禁止されており、毎日ほとんど同じ店のお弁当とファミレスの食事でした。

自宅には高齢の祖母がひとりで待っていること、親も兄弟も全ての仕事と日常生活を絶って監禁に参加していることなどを思うと、本当に心が痛みました。
母親は、娘をカルトに奪われたと言って、朝起きると、窓の外に向かって「S(私の名前)!帰ってきてー!!」と泣き叫び、父やきょうだいからも泣かれたり、なじられたりしました。

私は、愛する親兄弟が自分のために大きな犠牲を払い、嘆き、号泣する姿を見ながら、理解されない無念さと申し訳なさで胸が締め付けられる思いでした。

だからといって、自分の人格存在にかかわる内的な問題である信仰を、家族やA牧師の言いなりになって、一時の異常な環境の中で断念するわけにもいかず、血を吐くような苦痛と葛藤の中で過ごした24日間でした。自宅に戻った時には体重が5kg落ちていました。

私の監禁の直後に、私と入れ替わりで、大学の後輩がそのマンションで、やはりA牧師から監禁による説得を受け、脱会していきました。
その元メンバーに大学でバッタリ会ったときに、A牧師についての印象を尋ねると、「んー、最後まで好きにはなれなかったなぁ・・。いつもタバコの臭いをプンプンさせて来て、一度もお祈りもしなかったし・・。自分は摂理をやめてもキリスト教の信仰は持ち続けるから、通う教会をさがしているけれど、Aのところには行かない。結果的に要求はされなかったけど、もし最後にAから、教会のメンバーのリストを書けと言われたら、どうしてあなたのやっていることに僕が加担しなくてはいけないんですか!と、絶対に断るつもりだった。脱会するのにあのやり方しかないとは思えない。」と語っていました。

私が摂理をやめると言った翌日に、私の家に密告の電話をした元友人メンバーが、遠方から私に会いに来ました。彼女は私のわずか1カ月前に同じ場所で監禁され、脱会していました。

彼女が脱会を決意すると、A牧師が「自分だけ脱会して、それでいいのか」と言い、教会の全メンバーの名簿を書くよう言われ、数人の家に密告の電話をしたんだと、その元メンバーは私に話しました。

私の親は、密告の電話を受けた後、A牧師に会い監禁の説明を受けた時、この人ではムリだ、娘を説得できないと思い、しばらく悩み、しかし他にいないなら仕方がないと思い依頼したんだと、後に私に話しました。

私が監禁から解放されるとき、A牧師から、A牧師の教会の聖書勉強会に通うよう勧められました。気は進みませんでしたが、断ると親が心配すると思い、数回通いました。

一回目、開始時刻より早く私が到着すると、私の脱会に気を良くした様子のA牧師は、長年の脱会活動で集めた元摂理メンバーの御言葉ノートや、私の家に密告した元メンバーが私の脱会を喜びA牧師に感謝を綴った手紙などを披露し、それまでの自分の脱会活動の実績を語り、饒舌でした。

そして、タバコをふかしながら、「オレなんかけっこう単純だからね、イエスが雲に乗って来るっていったらそのまんま信じちゃうけどね。」と重みなく話しました。

その数日後、私は、私の家に密告電話をした彼女に会いに行きました。

摂理の教えが歴史的事実に反していると主張するためにA牧師が示した歴史資料は、諸説あり絶対的なものではなく、摂理で教えていることはきちんと他の歴史資料に明記されていることなどを伝えました。

そして、あのような一時的な異常な環境の中で性急に信仰を諦め、熟慮のないまま、また他の家庭の事情も知らずに、あのような非人間的な手法を無責任に勧め、電話一本で他人の家庭を混乱に陥れるようなことはやめるべきだと話しました。

その上で、私は摂理の信仰は信じるに値すると思う、もう一度冷静に考えてみてはどうかと話しましたが、もとより彼女は聞く耳を持ってはくれませんでした。

その翌週、二度目のA牧師の聖書勉強会に行きました。A牧師は、私がその彼女に会いに行ったことをすでに知っていたのか、前回とは様子が一変し、氷のような冷たい態度で、4人しかいないその勉強会の場で私とだけは一切目を合わさず、終始一言も言葉を掛けてくることはありませんでした。

もしも彼が、報酬を念頭に置きつつも、私の信仰を真に心配する気持ちが多少でもあって脱会説得をしていたのなら、監禁を経ても尚私の信仰の変わっていないことを知って、少しでも話し合ってみようとするものではないかと思い、彼の真意を見た思いでした。

またA牧師は、信者が脱会を表明すると、誰に対しても、A4のレポート用紙20枚に、入信から脱会までの経緯や考えの変化を詳しく書くよう、課題を課していました。

私は、一刻も早くそこを出なくてはと思い、一行飛ばしで大きな文字で一気に書き、内容は、教会やメンバーについての詳しい情報に触れないよう、抽象的な話や瑣末な事柄を詳しく書くことでページを満たしたので、脱会の真意のないことを容易に見破られるのではないかと怖々した思いで提出しました。

しかし、受け取ったA牧師は、その場でパラパラと目を通し、「まだナナメ読みだけど、だいたい良く書けてるんじゃない」と言い、翌日には私と両親に帰宅を許可し、あっさり解放されて監禁が終わりました。

Cが脱会し、虚偽の証言をするに至った経緯

Cは1999年7月に、実家に帰ったまま音信不通になりました。しばらくして、「私もどうやら(監禁場所に)連れて行かれるみたいだ」という連絡が教会に入り、その後、8月から10月にかけて70日間、自宅や東京都立川市のアパートの一室で、家族と日本基督教団のA牧師から、監禁による強制棄教を迫られることになりました。

Cが70日間の監禁から出てきてしばらくたった11月下旬のある日、彼女は「会社の同僚と会うといって家を出てきた」と、早稲田教会にやって来ました。N伝道師と私とCの3人で近況等を語り、その後私はCの帰途に同行しながら、1時間あまり2人で対話しました。

Cは「とにかく辛かった。もう何がなんだか分からなくなっていた。監禁中に医者である姉に『今ここに刃物があったら皆を刺し殺してしまうと思うけれど、この精神状態は異常なのか』と聞いたら、『それは異常だ』と言われた」と話していました。また、「部屋の白い壁にイエス様が十字架にかけられている姿が見えた」とも言っていました。長い監禁で精神的にかなり追い詰められていた様子が窺えました。

監禁から自宅に戻ってからはどんな生活をしているのか、と私が聞いたら、「外出はできないし、家の電話も使えない。食欲も睡眠欲もなく、何も考えられなくて、毎日一日中ベッドに横になっている。かろうじて食事をしている。祈ったり聖書を読む力もない。最近、このままでいたら、自分は精神病院に行くことになるのではないかと思う。」と答えました。監禁後も、精神的に衰弱しきっていたのがわかります。

A牧師の話を聞いて、以前の信仰の確信が揺らがなかったのかと聞くと、「鄭牧師の性的スキャンダルをたくさん聞かされたけれど、暴行の被害を訴える女性たちと鄭牧師の間に実際に何があったのかは、その場にいない限り誰にもわからないこと。しかし、私はすでにそういう話を聞いて疑いを持ってしまっている。でも鄭牧師にそのような行為が全くなかったということを証明することは現実的に不可能なことだ。私はこれから一体、どうやってこの疑いを払拭したらいいのかわからない。」と、ひどく思いつめた表情で私に訴えかけてきました。

つまり、この時点で、Cは鄭牧師の性的暴行について、被害体験はおろか、その事実性を確信さえしていなかったのです。

また、「私はS(私)がいなければダメだったと思う。Sも同じように監禁されたのに、それでも戻って来たんだから、Sが戻って来たんだから、摂理は絶対に真実なはずだと思って耐え続けたんだよ!」とも話し、この時だけ、Cは笑顔を見せました。
つまり、この時点で、Cは鄭牧師に対して疑問を抱きつつも、私との個人的信頼関係には何の支障もきたしていなかったことがわかります。
それまでの5年間、Cと私は毎日のように顔を合わせ行動を共にしていたので、彼女の言葉が本心か偽りかは容易に判別できました。そしてこの時の彼女は、確かに全くの本音を吐露していました。

しかし、このわずか1ヵ月後の12月末に、Cは他のメンバーの家に教会批判の資料を送りつけ、その親に脱会工作を持ちかけていました。また、翌2月には、私の親に電話をし、「Sはまだ教会に通っているから、絶対にやめさせたほうがいい」と言ってきました。また、同じ頃、私が出ると切れてしまう無言電話が数回ありました。

私は11月に彼女と会った別れ際に、自分の携帯番号を彼女に教え、「また外出できた時には必ず連絡してほしい」と念を押し約束しましたが、電話はついに一度もかかってこないまま、いきなり親に密告してきたのです。

70日の監禁でも変わらなかった私たちの信頼関係が、一体どうしていっぺんに破綻をきたしたのか、私には不可解でしたし、電話一本でもくれて、思いや考えを話してくれてもよかったのでは・・・と裏切られた思いでした。

そして、ここまで急激にCの主張を変えさせた要因が何だったのかと悩みましたが、後になって、この空白の1ヶ月の間に、Cは、摂理反対活動組織の中心的人物と出会い、後に結婚していたという事実を知り、それこそが彼女の態度を急変させた最大の要因だったのだと悟りました。

私たちの教会では、学問、スポーツ、芸術など、個性に合った分野で、各自の趣味や特技を生かした信仰生活をしていて、教会でのいろいろな活動も、あくまで本人の自発的な意思でしていました。義務として強制されたことは一度もありませんでした。

そのような環境にあって、Cは、自分の意思や人の意見に対する反論を主張することは全くといっていいほどなく、人の話をあまり分別せずに、その場の雰囲気に迎合し流されがちな様子は、傍で見ていても不安やもどかしさをを感じることが多々ありました。

このように普段の生活の中で、周囲の人間の影響を受け、流されやすかったCが、監禁生活によって精神的に衰弱し、5年間の信仰的アイデンティティが揺るがされる中で、目の前に現れ自分のために熱く脱会を説く男性に惹かれ、その後はすべての判断を相手に委ね、彼の反対活動に追従するようになったとしても、不思議はありませんでした。

以上のように、鄭牧師との面会時の事実関係、監禁体験、C本来の性質、反対活動者である男性との出会いなどから総合的に判断すると、Cが受けたという性的被害についての証言は、著しく信憑性のないものだったと言わざるをえません。

拉致監禁後の思い

今回改めて、摂理の信仰とそれに対する迫害、また監禁による強制棄教について思いを致しました。

私は大学2年生のとき摂理に出会いました。そして聖書と摂理の教えの中に、はっきりと神様、イエス様を見出せるようになり、摂理での信仰生活を心から楽しんでいました。

しかし監禁では、周囲の大人たちから、あなたは他の教会を知らず、ろくに社会も知らないからそう思っているだけだと責められ、もっと大人になって広い世界を知れば必ず変わると窘められました。

実際その時の私は、摂理での貴重な体験や感動を相対化して表現するだけの言葉を持たず、あそこで自分を取り囲んだ誰一人のことも説得できず、無念にも内心の信仰だけを守って、痛切な無力感と共にそこから出てきました。

あれから14年が過ぎ、この間に私は政治や司法、文学、美術、他の宗教など、社会のなかにある様々な言葉と価値観に触れ、そしてもっと深く聖書を読み、今ではもう少し、自分が最初から今まで経験してきた摂理の価値を、相対的な価値の中に位置づけ、その上でやはり自分が摂理での信仰を選び取る必然的な理由を、自分の言葉で説明できるようになったと思います。

私は、信仰の本質は自由にあると考えます。
自他を問わず、信仰を扱う時にいちばん留意すべきは、その自由を損なわないことだと思います。

同じ宗教団体に属していても、同じ家庭に属していても、人は決して全く同じ道を歩むことはできず、あまりにも各々が異なっています。だからこそ個人は自由なのですが、その自分が背負うしかない自由から生じる不安や困難をコントロールし、これを最善に生かして用いていくために、人は信仰とセットで自分の自由を生きていくのだと思います。

そうであるならば、一体誰が誰の信仰を一概に否定し、批判できるでしょうか。
自分の子どもが摂理に通っているとして、摂理がどんな所なのかをメディアで調べ、詳しいという人の情報を信用し任せるからといって、それで子どもを理解し掴めるのでしょうか。
摂理に通う、目の前にいる子どもが、何を思い何を考えて摂理の信仰を持っているのかを尋ね、子どもの持つ心と考えの自由を信頼して耳を傾けるならば、同じ家庭に属しつつも自分と全く同じなわけではないそのわが子の真意を確認でき、家族としての繋がりを強めこそすれ、その心と考えの核心である信仰を全否定することにはならないはずです。

私は摂理の教会に18年間通った中で、自分の思考と気持ちの自由を放棄し誰かに預けてしまった「盲信者」を見たことがありません。人はそんなに単純な生き物ではないと思います。

よって、やはり、監禁による強制棄教には反対です。また、どんな合法的な手段や表現によってであれ、人の信仰心自体に干渉し、それを失くさせようとする行動にも、同様に反対です。

私は、一度信じてしまったから他の考え方ができなくなって今も摂理にいるのではなく、人間の心と考えについて、いつも摂理の鄭牧師が誰よりも深く正確に教えてくれるから、その摂理の御言葉を離れることができないのです。

なお、私はこの手記に、自分が見て感じたことを体験した通りに書きました。自分の記憶の中にないことは一つも書いてなく、誇張して表現したところもありません。

そして、決して、CさんやA牧師の人格や信仰を、中傷するものではありません。あんなに親しかったCさんと会えなくなったことは、今でも残念です。

また、もし再びA牧師と聖書や信仰について、自由な議論をできる時があるとしたら、それは望外の喜びです。

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